Labo_No.554
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柔道教育を通じて自他ともに成長を目指すロ株式会社に就職されたのは、本格的にオリンピックを目指す決意の現れでもあったわけですね。楢﨑 ダイコロは試合場が4面もある道場をもち、柔道に力を注いでいる会社でした。とても恵まれた環境の中で、柔道に取り組むことができ、心から感謝しています。在職期間中に2度もオリンピック出場を果たせたわけですからね。――オリンピックの大舞台に初めて立ったときの気持ちはいかがでしたか?楢﨑 目標としていた憧れの大会だったので、自分自身が代表になれたことが何よりも大きな喜びでした。当時、オリンピックの前哨戦ともいえる福岡国際(95年)やフランス国際(96年)で優勝を果たすことができ、オリンピックで戦うことになるはずの各国のライバル選手たちにも勝っていたので、周囲からの期待も大きく、その自覚もありました。そんな中で、何度も戦ってきたキューバのベルデシア選手に、アトランタの3回戦では旗判定で敗れて、敗者復活戦に回ることになってしまいました。そこから、何とか這い上がって銅メダルを獲得できましたが、肉体的にも精神的にもそれまでで一番きつい大会でした。――敗者復活戦までのわずかな時間の中で、心身ともにリセットする必要があったわけですね。楢﨑 はい。スムーズに決勝まで進んだ場合は全5試合(当時)。でも、敗者復活戦に回ったことで、銅メダルに辿り着くには、1日に6試合を戦わなければならなくなったのです。メダルの期待もありましたし、指導していただいた先生方や会社の方々、家族、友人に感謝の気持ちを伝える場とも思っていたので、結果を残すことに人一倍強い意志がありました。ただ、一度折れてしまった気持ちを再び奮い立たせるのは、“言うは易く行うは難し”です。敗者復活戦の1試合目は、気持ちの整理がつかないまま畳に上がっていました。それでも何とか突破することができたのは、それまで培ってきた稽古の蓄積が、マイナス部分を補ってくれたからだと思います。――敗者復活戦の2試合目も、心の動揺を引きずったままだったのですか?楢﨑 そうです。相手は前年度の世界選手権2位のマリアニ選手(アルゼンチン)で、どっちに転んでもおかしくない試合でしたが、不安定な心の中でも、勝たなければという思いが、無意識にかけた得意技の体落としにつながって、「技あり」で勝利を得ることができました。そして、3位決定戦では大内刈りの一本勝ち。何とかメダルに手が届きました。――シドニーオリンピック(2000年)にも出場され、銀メダルを獲得されました。楢﨑 アトランタ後は、筑波大学大学院に進学し、そのまま競技を続けるか迷っていた時期でした。徐々に“戦える身体”からは遠ざかっていて、このまま退いて教員を目指すか、いや、もう一度奮起してシドニーを目指すか……。いまのこの現状でチャレンジしたいと思えるか、自問自答していた時期といえるかもしれません。――そして、チャレンジすることを決断された。楢﨑 はい。最終列車のドアが閉まる直前に飛び乗った感じ(笑)で、世界選手権の第一次選考会に出場するかどうかのぎりぎりで決めました。結局、1年半ほど迷っていたことになりますね。――シドニーでは、銀メダルを獲得。この結果に対しては、ご自身の中でどう評価されていますか?楢﨑 結果よりも、もう一度奮起してチャレンジしようとしたことを評価したいと思っています。シドニーでは28歳になる年齢だったのですが、その年齢の女性の体力キープはなかなか難しく、1週間合宿で追い込んだら、1週間休養しなければ疲れがとれないのが普通になってきます。体力の衰えにいかに抗うかという戦いなのです。これ以上は求めなくても、これ以下にはならないように、体力維持に努めました。――現在は、福岡教育大学教授として、どのような研究に取り組まれていらっしゃいますか?楢﨑 武道は平成24年度より中学1~2年生で男女ともに必修となりました。ところ 6稽古に訪れていた学生たちといまも柔道衣を着て、学生たちの指導に当たっている2025.03 – LABO■

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