――先生は幼少期の頃から柔道に取り組んでこられたそうですね。楢﨑 はい。父が町道場(神奈川県大和市)を経営していたので、4歳の頃にはもう習い始めていました。私は兄、私、妹、弟の4人兄弟なのですが、もちろん全員柔道を習っていて、もともと柔道に慣れ親しむ環境にあったという意味では、道場がもっとも居心地のいい遊び場になっていたと思います(笑)。――昭和の時代には、地域の中にごく普通に溶け込んでいた柔道や剣道の町道場も、現在ではなかなか見かける機会も少なくなってしまいました。楢﨑 当時(1970年代)は、市内にもいくつかあったと思います。父の道場も最盛期には100人を超える入門者がいて、稽古日は火、木、土、日の週4日。全員一斉に指導することはできないので、夕方5~9時までを3~4回の時間制に分けて受け入れていたほどでした。――子どもの頃から男の子に負けたくない、強くなりたいといった願望はあったのですか?楢﨑 いまになってこんなことを言ってしまうと、父に怒られてしまうかもしれませんが、実はそこまでの意欲はありませんでした(笑)。どちらかと言えば、ほんの数名しかいなかった少し年上のお姉さんたちと遊んでもらえるのがただ純粋に楽しかったのです。――中学では柔道部に?楢﨑 いえ、柔道部はなかったので陸上競技部に入部しました。選択した種目は100mハードル。決して足が速かったわけではないのですが、体力がつくだろうという単純な理由で(笑)。でも、競技として取り組むとなるとやはり難しく、記録はなかなか伸びませんでした。一方で、柔道の日々の稽古量はぐっと減ってしまったのですが、市の大会で優勝するなど、結果が出るのは柔道でした。自分には柔道のほうが向いているのかなと感じました。 4後進の人たちとの交流を楽しみつつ、自信をもって指導ができるように、今後も貪欲に学んでいきたい。4歳から始めた柔道道場は居心地のいい空間だったアトランタオリンピック(1996年)柔道女子52㎏級で銅メダル、シドニーオリンピック(2000年)では同階級で銀メダルを獲得。元オリンピアンで、現在は福岡教育大学教授を務める楢﨑教子さんに、4歳から習い始めたという柔道人生を振り返っていただくと同時に、柔道教育を通じて学んだ“現在地”と今後の目標についてうかがいました。アトランタオリンピックの表彰式。敗者復活戦から這い上がり銅メダルを獲得したどういう指導者と出会うか、選手への影響は大きく、私はとても恵まれていました!2025.03 – LABO■
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