Labo_No.550
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岡山市旭川河畔にあるこの城は、天守が黒漆塗下見板張り壁面のことから烏うう城とも呼ばれる。現在に残る城は、天正元年(1573)に宇喜多直家が築城を始め、天正18年(1590)、秀吉の助言もあり大普請を行った。現在よりも東に流れていた旭川本流を岡山城の東を守る堀として付け替えた。天守は慶長2年(1597)宇喜多秀家の代に竣工と伝わる。昭和20年(1945)の空襲で焼失したが、昭和41年に外観が復元された。また発掘調査で金箔瓦が出土し、鯱・軒先瓦等金箔瓦に改め、今日の姿になる。その後、関ケ原合戦直後、小早川秀秋が入城、池田輝政の子、忠たぐ継・忠たつ雄らが本丸・西の丸を整備した。本丸内に残る月見櫓は現存建築で、西の丸に池田忠勝が西手櫓を建てる。これも現存建築である。また旭川を隔てて貞享4年(1687)から池田綱政の時代に作庭したのが大名庭園の後楽園である。五稜郭は函館市にある5つの稜りほ堡を組み合わせた城である。星形の城。稜堡とは塁壁を外に突き出した攻撃・防御の鋭角の出張りのことである。実際には大手口前に半月堡があり稜堡は6つである。箱館奉行所とも亀田御役所土居(土塁)とも呼んだ。柳野城の別名もある。安政元年(1854)に日米和親条約締結により箱館を開港した。幕府は松前領であった現在の元町公園に箱館奉行所を置いた。開港にともない、港湾防衛のため弁天岬台場の築城と亀田への新奉行所が認められ、蘭学者の武田斐あ三郎がフランスの城塞都市図を参考に設計した。西洋では土塁を用い石垣を使用していなかったが、寒さを考慮して石垣を用い、安政4年(1857)から元治元年(1864)に竣工された。箱館戦争の本拠地となった場所でもあり、平成22年(2010)には箱館奉行所が復元され公開されている。桜の名所としても有名である。五稜郭タワー展望台から一望できる。だかだつじょょうやさぶろう 岡山城烏城とも呼ばれる黒漆の天守が際立つ 五稜郭箱館戦争の本拠地となった西洋式の城一度は訪ねたい日本の城     星形の五稜郭の全景。城跡は市民公園として開放されている黒漆が際立つ三重6階の美しい岡山城天守2024.11 – LABO ■日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。(にしがや・やすひろ)14令和医新DATA別称 柳野城築城年 1857年文化財史跡区分 国指定特別史跡住所 北海道函館市五稜郭町44DATA別称 烏城築城年 1521〜1528年文化財史跡区分 国指定史跡住所 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1西ヶ谷恭弘個性あふれる城岡山城 五稜郭第11回

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