岡山県高梁市にあるこの城は、江戸時代の大名の居城としては本格的な山城で、現存天守が残る山城として広く知られる。見どころの大手口の高石垣、現存する二重櫓が岩盤と石垣上に残る景観は、当城ならではのもので見学する者を魅了してやまない。近世の山城の中でも備中松山城は、小松山(標高430m)が知られるが、その背後にある大松山(標高486m)にも秋庭氏が築いた大規模な山城があった。大松山は近世にすでに建物が失われていたが、堀切、石垣等が残る。本格的な築城は幕府直轄時代、小堀正次・政一時代で、その後、水みや谷氏が入り、天守・二重櫓などを修築。水谷氏は三代で断絶し、赤穂城主浅野長矩が預かり、大石内蔵助が1年間城代をしていた。登城道には大石内蔵助腰掛石が残る。現存天守の十二城の一つである。城下には小堀政一(遠州)作庭の頼久寺と松連寺、薬師院などがある。兵庫県朝来市古城山山頂に残存する石垣の美しさが有名な山城。創築は山名宗全が出石比隈山の出城として古城山の一帯に築城したのが始まりという。標高354mの山頂一帯に残存する石垣の美しさは、「日本のマチュピチュ」「天空の城」と呼ばれ人気を集める。初代城主太田垣光景以来、太田垣氏七代にわたり城主をつとめた。現在の遺構は赤松広秀が、文禄・慶長年間(1592~1615)に造営したものと推定されている。慶長5年(1600)、関ケ原合戦に広秀は当初西軍につき丹後田辺城攻めに加わり、のち東軍に転じ鳥取城を攻めた。その折城下への放火の責を問われ改易。竹田城も廃城となった。現在残る石垣づくりの城となったのは広秀の代とされ、その後破城はなく、枡形虎口や櫓台は当時の遺構といわれる。雲海の城はこのほかには赤木城(三重県)、越前大野城(福井え 県)、郡上八幡城(岐阜県)、津和野城(島根県)などがある。ずの 備中松山城本格的な山城、天守が現存する 但馬竹田城石垣が美しい「天空の城」一度は訪ねたい日本の城10(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。る日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』2024.08 – LABO ■但馬竹田城。美しい山頂部の石畳備中松山城。天守の左後方に二重櫓をみる(にしがや・やすひろ)令和医新DATA別称 虎臥城築城年 1443年頃文化財史跡区分 国指定史跡住所 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169DATA別称 高梁城築城年 1240年文化財史跡区分 国指定重要文化財住所 岡山県高梁市内山下1西ヶ谷恭弘雲海が見える城備中松山城 但馬竹田城第8回
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