Labo_No.546
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明治に至るまで尾張徳川家の居城となる一度は訪ねたい日本の城名古屋城は愛知県名古屋市にある日本三大名城の一つ。古くは那古野と記し、駿河今川氏が尾張侵攻の拠点として築城。織田信秀は今川氏を追い出し、子信長を置き、信長は弘治元年(1555)、清洲城に移る前までの居城。慶長14年(1609)、徳川家康は清洲城にかわる駿府・江戸との軍略拠点とし、名古屋に大規模な築城を計画。同19年に二の丸までを築いた。以降、尾張徳川家の居城となり、明治に至った。明治以降荒廃したが、中村重遠大佐らの保存運動により威容が保たれた。昭和20年、空襲時までその威容を保ち続けた。金鯱が上がる天守は、慶長17年(1612)に竣工。石垣は19・45mで加藤清正が担当。その上に36・1mの天守建築があがった。大棟上には大判1940枚が用いられた金鯱があがった。北が雄、南が雌で高さ2・51mであった。この天守は昭和20年の空襲により本丸御殿群、並びに小天守とともに焼失。現在の天守は昭和32年から34年にかけて建築。鉄骨コンクリート造りの外観復元建築である。しかし、耐震などの理由から現在は閉館中である。本丸御殿群も空襲で焼失したが、本丸御殿は2018年に復元され公開されている。本丸に残存する建築遺構は巽櫓と坤櫓、表門桝形塀、東二の門、表二の門、西鉄門である。二の丸は尾張徳川家の居所で御殿が失われたが、石組からなる枯山水庭が残る二之丸庭園としてある。西の丸には正門(旧榎多御門)があり、この門は江戸城蓮池御門を明治43年(1910)に離宮正門として移築したが、焼失し再建された。御お深ふ井け丸には三層の清洲櫓が残る。清洲城天守を移したものであるが、外観はかなり違っていたようだ。また、石垣は助役を担当した各大名や運搬する目印などの刻印、符牒が夥しくみられる。本丸東二の門を入った所に「清正石」がある。名古屋城最大の石である。10日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、■城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。(にしがや・やすひろ)復元された本丸御殿の内部。壁画は重要文化財2024.07 – LABO ■外観復元の天守を南西方向にみる令和医新DATA別称 金鯱城築城年 1610年文化財史跡区分 国指定特別史跡住所 愛知県名古屋市中区本丸1-1西ヶ谷恭弘名古屋城尾張名古屋は城でもつ!第7回

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