Labo_No.545
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大阪市城東区に築かれた城郭。創築は明応5年(1496)、真宗本願寺派一向宗の蓮如により、石山の丘上に別院を構えたことに始まる。この別院は天文元年(1532)に石山本願寺となり、城郭寺院(寺内町)の構えで、元亀元年(1570)から10年間、織田信長と激しい攻防戦の舞台となった。信長は天正8年(1580)織田信澄と丹羽長秀を城代として大坂築城を始める。本能寺の変のあと山崎合戦に勝利した木下秀吉が、宝寺城よりこの地に移り引き継いだ。淀川の水利を利用して、石材・木材などを運搬し築いた。発掘調査では畝堀や堀障子など堅固な構えが判明した。この秀吉の大坂城本丸には広大な殿舎と5層7階の大天守があがり、秀吉による天下統一を世に知らしめた豪壮な構えだった。秀吉の大坂城築城は、徳川政権が成立して間もなく冬の陣・夏の陣で大天守が焼失、落城してしまう。徳川幕府は元和6年(1620)に西国大名に大規模築城の助役を命じ、藤堂高虎が改築にあたった。普請・作事(建屋の築造)の一応の完成は寛永6年(1629)頃といわれる。幕府が諸大名に城郭普請の助役を命じることで、財力消耗と徳川政権への忠誠心、軍事拠点の抑えなどを行い「天下普請」とした。ここ大坂城築城が築城ピーク時の成立で、幕府は築城・修築を厳しく禁止したので、大坂城を超える築城技法はなかった。寛文5年(1665)、天守は落雷により焼失した。建物遺構は千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・焔硝蔵などがある。見どころは巨石をもって石垣が築かれたこと。虎口には蛸石、肥後石、見付石などの大きな石を据えている。本丸東北角の石垣は日本で一番高い石垣で、現在は「大阪城御座船」で大阪城内濠を遊覧し、石垣を間近に見ることができる。現在ある大阪城天守閣は、昭和6年(1931)、日本で初めて鉄骨をくみ上げた天守閣である。 鉄骨をくみ上げた豊臣から徳川へ徳川家、威信をかけて新しく築城一度は訪ねたい日本の城10日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。2024.06 – LABO ■本丸西側石垣と天守閣。巨石をもって築かれた石垣が見どころで、大阪城内濠を遊覧する「大阪城御座船」で間近に見ることができる(にしがや・やすひろ)令和医新DATA別称 錦城築城年 1583年文化財史跡区分 国指定特別史跡住所 大阪府大阪市中央区大阪城1-1西ヶ谷恭弘天守閣大坂城第6回

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