Labo_No.544
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一度は訪ねたい日本の城かしじょう松本に国宝の五層六階の天守がある。今日五層天守は、松本城のほか姫路城、松江城に残るのみで、きわめて貴重な存在だ。天守は五層の大天守と三層の乾小天守、二層の辰た巳附櫓、単層吹き放ち造りの月見櫓が一体となる構造で、連立式天守と呼ばれる。外観は軒裏と窓上部以外は、黒漆喰で仕上げられた下見板張り壁面で、見る角度により表情が異なる。姫路城の華やかさとは対照的である。城は信州松本平の中央にある平城で、女鳥羽川水系を濠とし、北が若干高く、南に緩やかに低くなる。したがって本丸、二の丸、三の丸を囲む水濠の高さを保つため、各虎口(出入口)前は土橋で、土橋左右の濠水位を調節する。築城は信濃守護職で井川城にあった小笠原長朝が林城に移った折、北の抑えとして築城したことに始まる。天文19年(1550)、武田晴信(信玄)が林城を落とし、中信地方の府城として、この地に城を構え「深ふ志城」と称し、馬場美濃守を配置した。武田氏滅亡後に小笠原貞慶が入城、松本城と改称。天正18年(1590)、東国を征した豊臣秀吉は、石川数正を松本城に入れた。数正の子康長の時代、慶長2年から3年(1597~98)頃に石川氏の居城として施工したと考えられている。石川氏の時代、天守群は今日みる複合連結式ではなく、大天守と乾小天守が渡わ櫓で結ばれる連結式で、大天守の姿も異なっていた。大天守四層(五階)より五層(六階)が半間ずつ四方に小さく、小さい半間幅で廻縁がある望楼式天守であったが、雪により傷みが激しくて濡縁を囲ってしまい、五層目が不自然になった。寛永10年(1633)、松平直政が入城後、大天守に辰巳附櫓と月見櫓を増築。これにより天守群はバランスがよい今の姿となった。平和な時代であったので、増築部分の月見櫓は城郭建築では珍しい開放的な構造である。つみつけやぐらたりやぐら漆黒の城が松本平にそびえたつ日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。松本城。本丸内部より見た天守群で、左より月見櫓、辰巳附櫓、大天守、小天守。姫路城の華やかさとは対照的な、黒漆喰で仕上げられた下見板張り壁面が特徴2024.05 – LABO ■10(にしがや・やすひろ)DATA別称 深志城築城年 1594年文化財史跡区分 国宝住所 長野県松本市丸の内4-1第5回松本城 大・小天守群が残る国宝の城令和医新西ヶ谷恭弘

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