現在残る天守は城主津軽氏が文化7年(1810)にロシア船の相次ぐ来航を警戒し、本丸辰巳櫓を改築し「御三階櫓」と称し天守代用とした。この改修で本来栩(くぬぎ)葺の屋根を銅板本瓦葺に改め、五間に六間の初層を平面に対し、二層・三層を各一間ずつ小さくして層塔式天守に改めた。また、現存する三層の三棟の櫓には畳寄せという敷居材および棹縁天井を吊るすが、御三階にはなく、本来の櫓建築のままである。各層内部には入側(武者走りの外周部との区画)がなく一室づくりで、本来の建築のままである。御三階のほか二の丸に辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓、東内門、南内門が、三の丸に追手門、東門が、北の丸に亀甲門が残り、いずれも重要文化財に指定される。このほか番所、追手門の塀、亀甲門の塀建物が遺構としてある。城は天正8年(1580)に織田信長の命により佐久間信盛が築城。3年後に前田利家が入城。以後明治に至るまで、前田氏歴代の100万石の居城となった。城は尾山の丘山頂に本丸を置く一二三段式の階郭式縄張の城。本丸には前田利家があげた五層天守が存在したが、慶長7年(1602)落雷で焼失。翌年から再築にとりかかるが、幕府に対する配慮から御三階櫓を天守代用とした。この御三階櫓は宝暦9年(1759)に火災で焼失。今日、石川門と二重櫓の建築が残る。二の丸の菱櫓・五十間多聞長屋・橋爪門脇櫓は平成13年の復元建築である。ほかに三の丸長屋塀、鶴丸倉庫、二の丸西曲輪に、本丸付壇三十間長屋、水の手門、尾山神社に二の丸御殿唐門が移築保存される。いずれも初層が海鼠壁の端正な外容である。また、玉泉院丸庭園、兼六園も見どころである。一度は訪ねたい日本の城 弘前城弘前城は東北で唯一天守が残る桜の名所 金沢城加賀100万石前田氏の居城として名高い 2024.04 – LABO ■12金沢城。復元された二の丸の五十間多聞長屋(左)と菱櫓(右)弘前城。東北唯一の現存天守で三重3階の御三階櫓(にしがや・やすひろ)日本城郭史学会代表、日本城郭資料館館長、日本考古学協会会員。1947年生まれ。専修大学法学部卒。東京大学文学部大学院国史研究生。立正大学文学部講師などを歴任。東京都、福島県、茨城県、兵庫県などの発掘調査団長、担当者を務める。『戦国の城』全4巻(学研)、『復原図譜日本の城』『城郭古写真資料集成』(理工学社)、『江戸城』(東京堂出版)、『日本の城郭を歩く』全2巻『日本の名城』全2巻(JTB)、『城郭』(東京堂出版)、『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』(世界文化社)、『一度は訪ねたい日本の城』(朝日新聞出版)、『城郭百科』(丸善出版)など著書多数。第4回弘前城 金沢城令和医新西ヶ谷恭弘DATA別称 鷹岡城、高岡城築城年 1611年文化財史跡区分 国指定史跡、重要文化財住所 青森県弘前市大字下白銀町1DATA別称 尾山城築城年 1580年文化財史跡区分 重要文化財住所 石川県金沢市丸の内1番1号
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